大化の改新(645年6月)
政治権力を掌中に納めた蘇我一族の専横が極まり、之を中大兄皇子、中臣鎌足等が改革した国政改革です。国政改革とはいえ宮中に置いて暗殺が遂行されたのには、当時、宮中において武器(剣)の所持が容易であったことがあげられます。改革と称して、この様なことが度々起こったのでは、宮中が血の海と化してしまいます。そこで、宮中においては武器の所持が禁止となります。口論等の極まった場合には、下帯(フンドシ)一丁で庭にて〝組み打ち〟(相撲)で決するということとなりました。
大相撲等を見ると、手の平を返したり、柏手を打ったりするのは〝手の裏に手裏剣等保持しておりません〟という所作です。又、四股を踏むのは〝下帯の中に武器を隠していません〟という所作なのです。以来、今日に至るまでの歴史を育んで来たのです。
長い歴史
志賀清林を祖とし、志賀氏に代々受け継がれてきた故実・伝書などを受け継いだ初代の吉田家次(吉田豊後守 ぶんごのかみ)から始まり、相撲の宗家として代々「追風」の号を名乗ります。元来、京都の二条家に奉公し節会相撲の行事官として務めていましたが、その後、二条家の許しを受け、細川綱利に招聘され熊本藩に仕え、武家奉公をしました。以来、熊本県熊本市に住み、相撲に関する全権は、後鳥羽天皇より委ねられたとされております。